多摩と武蔵野(たまとむさしの)
ここでいう「多摩」とは、現在の「多摩市」やかつての「多摩郡」を指すものではない。「武蔵野」も同様に厳密な行政区画ではなく、どちらも領域の定まらない曖昧な概念として受け止めてほしい。
多摩と武蔵野は、重なりながらも少し趣きを異にする。練馬を武蔵野とすることはあっても、多摩とは呼びにくい。おおまかに言えば、新宿池袋より西側で、東京南部の丘陵地帯や西部の山々を除いた台地が「武蔵野」。一方の「多摩」は、それらの丘陵地帯や山々を含む市町村部といったところだろうか。埼玉の一部も武蔵野と呼べるだろうし、多摩には多摩丘陵つまり神奈川の一部も含まれる。『平成狸合戦ぽんぽこ』は多摩丘陵の話で、『となりのトトロ』は武蔵野台地の話だ。
ジブリはこの土地に根付き、作品と風土の結びついた代表例だろう。他にも中央線沿線にはアニメ関連会社が多数あり、漫画家やミュージシャンも多く暮らしている。調布はかつて映画産業で栄え、今でもスタジオや関連会社が活動する。基地の街、福生は現代文学において重要な舞台でもある。東京では都心部にアトリエを構えることは難しいためか、これらの地域で制作するアーティストも多いようだ。現代日本の文化を育む土壌とは言い過ぎだろうか。
美術やデザインを教える学校も東京西部に多い。武蔵野美術大学と多摩美術大学は、元々「帝国美術学校」という一つの学校であった。乱暴な説明になるが、理論派(武蔵美)と実践派(多摩美)に分裂したため、グラフィックデザインに関する学科でも武蔵美はアカデミックな傾向が強く、多摩美は絵画的で広告的という性格が今なお残る。ある留学生は、武蔵美の面接試験で「構成主義」への見解を求められ、多摩美では「日本と中国のラーメンの違い」を尋ねられたという。地理的にも武蔵美はまさしく「武蔵野」にあり、多摩美はちゃんと「多摩」にある。
江戸時代頃の定義では、銀座なども武蔵野に含まれる場合もあるようだが、さすがに現代の感覚とはかけ離れているだろう。多摩と武蔵野には「郊外」や「郷愁」というイメージが伴う。府中、調布、小金井、三鷹、武蔵野市の境が入り組むあたりには、今も公園や大学、研究機関などの一部として緑が豊かに残っている。戦後日本のモダンデザインの旗手である亀倉雄策は、少年時代をこの地で過ごした。そして歳を重ねても、武蔵野の雑木林を愛したという。その力強い作品には表れない亀倉雄策の情緒が、このエピソードから滲み出ている。