王子(おうじ)
王子と言えば、まず地名を冠した王子製紙の名前が浮かぶだろう。ここが日本最大の製紙メーカー創業地であり、日本における「洋紙発祥の地」ということらしい。この地で創業した旧・王子製紙は1949年に一度解体されたものの、現在の王子製紙日本製紙の前身となった。2022年現在、王子製紙は本社を移転しているが、いまだ日本製紙の登記上の本店所在地は王子駅前にあるようだ(事業所があるわけではない)。
東京都心部からやや離れるものの、荒川、隅田川や石神井川の水に恵まれ、日光御成道が通り、中山道も近く交通の便もよい。そのためか、製紙工場や印刷工場なども多いようだ。
王子駅前を見渡すと、JRや新幹線の高架、路面電車の都電荒川線(東京さくらトラム)、高速道路、歩道橋、バスローターリー、飛鳥山に沿ってカーブする大通り……といったように、さまざまな導線がとにかく入り組んでいる。
一方で北東の荒川方面には高層建築も少なく、空が広々した印象だ。混乱とともにぽっかりとした空白を併せ持った実に奇妙な土地であり、近代的な都市計画の観点からでは理解できないものが多々含まれている。それもそのはずで、飛鳥山には古墳もあり、古代から人々が暮らしてきた土地だからだ。
王子にマジカルなムードをもたらす下地は、狐にまつわる民話だろうか。「王子の狐火」は浮世絵の画題となり、「王子の狐」として落語にも登場する。これらの伝承の中心となるのが、高台の斜面にそびえる王子稲荷神社。境内をめぐる仕掛けも多く、さながらお江戸のテーマパークだ。王子稲荷神社には、柴田是真額面著色鬼女図」も奉納されている。「雛図」などでは美しいコンポジションを見せる是真だが、ここで描かれるのはデモーニッシュな女性だ。大晦日には狐に扮装し王子の街を練り歩く「狐の行列」も開催されているが、これはまだ始まって30年程度の歴史の浅いイベント。これからコクのあるジャパニーズ・ハロウィンへと発展する可能性もあるだろう。
飛鳥山は桜の名所であり、王子稲荷神社とともに浮世絵をはじめとする江戸の諸文化の題材となった。また、先に記したように、飛鳥山からは複数の古墳が発見されている。ここは武蔵野の台地の端であり、こうした見晴らしの良い場所には聖地が築かれやすい。水源も豊富で古代からの人々の暮らしが想像されるが、北区飛鳥山博物館にはそれを裏付ける考古資料が展示されている。
飛鳥山博物館の隣には、さらにふたつの博物館が設置されている。ひとつは渋沢史料館で、飛鳥山に暮らし王子製紙の設立にも深く関わる渋沢栄一の邸宅跡を利用したもの。もうひとつが、紙にまつわる資料を収集、展示する紙の博物館。本邦における洋紙発祥の地に設立された博物館として、専門性の高い資料をもとに興味深い展示が行われている。
王子駅の南北に置かれているのが国立印刷局の東京工場と王子工場で、王子工場にはお札と切手の博物館が併設されている。紙幣や切手などを印刷するのが国立印刷局。紙幣は印刷技術の結晶とも言え、当然グラフィックデザインとも密接に関連する。しかし、我々ふつうのグラフィックデザイナーとの間には結界のようなものが張られていて、なかなか実態を窺い知ることのできない世界だ。この王子では、そんな聖域を隙間から覗き込むことができる。
2022年6月18日公開
2022年8月10日 表現を若干修正