東京ドームや後楽園遊園地の北東側(つまり白山通りの東側から本郷三丁目駅付近までで、春日・後楽園駅よりも北のエリア)をここにまとめた。地下鉄丸ノ内線が地上へ顔を出す珍しい土地で、つまりは台地と台地の谷間に駅があり、駅から東にも西にものぼり坂がのびている。春日〜小石川でも書いたが、後楽園駅から銀座へ丸ノ内線1本で出られるため、このあたりに暮らすデザイナーも少なくないらしい。
後楽園球場(現東京ドーム)の近くのマンションには大手化粧品メーカーSのアートディレクターN氏が暮らしていたそうだ。山名文夫から連なる曲線の美と、淡く繊細な日本画的階調を大量生産される印刷物へ見事に定着させたN氏は、S社の広告スタイルだけではなく、戦後日本のアートディレクションの礎を築いた立役者のひとりと言えるだろう。一方、その繊細でエレガントな作風からは想像しづらいが、大の阪神ファンであったという。マンションの自室から双眼鏡で後楽園球場の試合を覗き、ラジオ実況、そして音声を消したテレビ中継と組み合わせながら、試合を“生観戦”していたらしい。その後、後楽園球場は東京ドームとなり、生観戦はできなくなった。
東京大学に近い土地柄ゆえ、中小の出版社や医療機器メーカーなどが点在する。また、小石川とともに文豪に関連する史跡も多い。菊坂付近は太平洋戦争での大空襲を免れたエリアで、樋口一葉が通った質屋などの古い建物も残っている。
本郷三丁目駅前の交差点には「かねやす」と書かれたシャターが下りているが、「本郷も兼康(かねやす)までは江戸のうち」と川柳にうたわれた。これは江戸の行政区画をしめすものではなく、このあたりを境に“街‘‘から“農村”へと景観が変わることをうたったもの。
N氏と同じマンションに仕事場を構えていたのはグラフィックデザイナーの佐藤晃一だ。短い期間だがN氏の部下でもあった佐藤は「Nさんの仕事ぶりを見て、印刷所との付き合い方を憶えた」とも語っていた。数度移転した佐藤の事務所はいずれも春日〜本郷三丁目の間にある。エアブラシを用いたグラデーションが代名詞の佐藤作品は、引越しのタイミングで作風にも変化が訪れる。エアブラシにはコンプレッサーや換気扇といった設備が不可欠だが、これらを使用出来るかが物件に左右されるためだ。あるいは、そのような条件に自身を誘導しており、「エアブラシをやめるために換気扇を設置できない部屋を借りた」とも言えるだろうか。
日本的な美を当時のテクノロジーによって表現した作品は、ときに「超東洋」などと評される一方で、「横尾忠則の真似」「日本的ポップアート」「日本語のパロディ」「そして日本画のパロディ」と一貫してパロディ的な感覚に貫かれている。銀座、青山から距離を取り、とはいえ江戸っ子的な土地柄にも馴染めず、この辺りの適度な古風さがキッチュへの好みを満足させてくれたのだろう。事実、近所の蕎麦屋で見かけた揮毫を作品のヒントにし、中華料理屋に掛けられたカレンダーを版下に使ったこともある。
この界隈のランドマークは本邦の最高学府、東京大学だろう。構内には、内田祥三、伊東忠太、丹下健三、安藤忠雄、隈研吾…と日本を代表する建築家による古今の建築物が並んでいる。佐藤晃一の元ネタのひとり、横山大観の脳はアルコール漬けにされ、現在も東京大学医学部に保管されているそうだ。
東大の裏手の地名は「弥生」といって、弥生町から土器が発掘されたため、「弥生土器」「弥生時代」と呼ばれるようになった。ここには弥生美術館・竹久夢二美術館がある。併設されたふたつの美術館では、いずれも明治〜昭和のいわゆる「レトロ」を味わえる。
両美術館の先、さらに根津まで進むと下町の色合いが強くなる。