春日〜小石川(かすが から こいしかわ)
春日、小石川と聞いて、どこにあるのか分からない人もいるだろう。東京ドームや後楽園の北に面する地域で、古くからの住宅街だ。かつては小石川区という区があったため、現在町名として使われている「小石川」よりも広い一帯を指す場合もある。
ここでは春日駅、後楽園駅より北側で、白山通りより西の地域について触れる。
駅の南側は水道橋、東側は本郷としてまとめる予定だ。
駅の南側は水道橋、東側は本郷としてまとめる予定だ。
山の手に分類されるが起伏の多い土地で、低地にあたる駅周辺からは東西に坂が伸びている。本郷や神保町という出版社の多い地域にも、凸版印刷や大日本印刷などの大手印刷会社にもほど近いためか、中小規模の製本工場も多い。少し裏手に入れば、今でもガチャンガチャンと機械の音が聞こえてくるし、製本工場跡地を利用した飲食店なども存在する。
また、永井荷風や立川談志などの出身地であり、育ちはよいがインモラルな芸風を育むのかもしれない?(厳密には談志の出身は現在の白山のあたりだが、旧小石川区としてここに記した)
駅前には初摺を中心とした浮世絵のコレクションを展示する礫川浮世絵美術館があった。こぢんまりした良い美術館だったが、駅前の再開発と時を同じくして、事実上の閉館となってしまった。横山操、蔦谷喜一、黒澤明らを輩出した画塾、川端画学校もこのあたりにあったようだ。
後楽園駅から丸ノ内線1本で銀座へ出られるため、このあたりに暮らすデザイナーも少なくないらしい。グラフィックデザイナーの佐藤晃一は、資生堂時代、そして独立直後の不遇の時代を小石川で暮らしていた。仕事の無い日々を、近所の子どもたちと遊んで過ごしていたため、「小石川の良寛さま」と呼ばれていたという。
佐藤が暮らしたあたりは旧町名で柳町ともいい、千川通りに沿って大塚あたりまで、共同印刷をはじめ印刷製本関連の工場が点在する。かつては和文タイプライターの工房もあったそうだ。佐藤の初個展「アブラゲからアツアゲまで」の告知ハガキは、因習的な文章によって構成され、近所の工房で印字したものを原稿にしている。文字のにじみを期待し強くプレスするよう依頼したところ、オペレーターの女性は訝しがっていたらしい。当時はツブレやカスレのないように印字することが美しいとされており、凸版印刷(技法。社名ではない)の「味」が一般的には認知されていなかったためだ。ここからは、晩年まで通底する「パロディ」的な感覚とともに、「拡張する輪郭」という佐藤晃一の芽も見てとれるかもしれない。代表作となる「箱」の秀作や、ポスター「NEW MUSIC MEDIA」もこの柳町の家で制作された。
佐藤の最初の事務所も春日通り沿いで(近年の再開発によってビルはなくなっている)、グラフィックデザイナーとして名を成してからも、銀座や青山などへ移転することなく春日界隈で仕事を続けた。交通の便の良さを理由に挙げることもあったが、「グラフィックデザイン業界のメインストリームへの心理的距離感のあらわれ」とも語っていた。
幸田露伴ら文豪にも馴染みのある土地で、さまざまな作家の随筆、エッセイにも登場する。時期は異なるが、水上勉も佐藤晃一の住まいのすぐ近くで暮らしていた。後年、劇団青年座で上演された水上原作『ブンナよ、木からおりてこい』『金閣炎上』などの宣伝美術を佐藤晃一が手がけることになる。
柳町から坂を上っていくと徳川家ゆかりの寺、伝通院(傳通院)がある。キッコーマンの醤油瓶、JRAのロゴなどで知られるプロダクトデザイナーの榮久庵憲司はこの寺に眠る。
多川精一は水道橋の東京府立工芸学校(現在の都立工芸高校)を卒業後、教員を務めていた原弘のツテで伝通院近くの東方社へ就職した。東方社は、名取洋之助の日本工房から独立するかたちで、中央工房として発足したのち改称。大戦中のプロパガンダ誌『FRONT』を制作・発行していたにも関わらず、左翼寄りのスタッフが多く、特高警察が伝通院界隈を嗅ぎ回っていたそうだ。陸軍参謀本部の息がかかっている東方社には特高も手を出せないため、そうした人材を匿うために積極的に登用していたと、多川は記している。
『FRONT』はA3サイズのグラフ誌で、米ソの写真誌を手本とし、エアブラシを駆使したフォトモンタージュや大胆なレイアウト、多言語への展開など、戦時中だからこその実験的な取り組みを見せている。結果的に、デザインや印刷の技術を途絶えさせることなく、戦後への橋渡しする役目を日本工房とともに担ったが、プロパガンダ誌としての負の側面については検証されていないだろう。東方社はのちに九段下へ移転するも空襲を受け、45年7月に解散。戦後、東方社のスタッフが中心となり結成された文化社も、小石川で再建を目指したが一年足らずで解散した。なお、多川の生まれは根岸だが、就職当時、実家は小石川界隈にあったようだ。
高台にある東方社の南側には、川口浩探検隊の川口浩によって運営された川口アパートメントが建つ。坂を下っていくと、凸版印刷(印刷会社)の裏手に出る。さらに神田川を越えれば原弘の住まいがあった。